姫路城の四季折々の素顔をお楽しみください
姫路城の四季折々の新着情報
梅雨の中日の日本晴れ
現在、梅雨の真最中です。
しかしながら、晴れの日もたまにあります。
昨日は、そんな梅雨の中の晴れの日でしたので、姫路城へ足を運んで来ました。
千姫ぼたん園の木々がうっそうと繁っています。
雨水をたっぷりと吸ってたくさん緑の葉をつけていますネ。
春先は、森の中も木漏れ日などで明るかったのですが、もう真っ暗(だけど涼しそう^^)ですネ。。
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そして姫路城の大天守の工事状況です。
クレーンが2機体制になりました(お花見の頃は、1機体制でした)。
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また、天守足元部分は石垣なのですが、足場建設でその石垣も見えなくなりました。
この足場を「素屋根」と呼ぶそうですが、素屋根建造がこれから年内続きまして、姫路城大天守の雄姿もしばらく見納めとなります \(~)/
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今の梅雨が明けたら、今年も本格的な夏到来ですね \(^^)/
今年は、どんな夏になるのでしょうか。。。
新緑の季節
姫路城にも新緑の季節がやって来ました。
4月の花見シーズンも素晴らしいですが、5月も美しい姿を見せてくれるお城です。
桜の代わりに新しい緑が目に眩しく映ります。
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続いて、千姫ぼたん園の見事な牡丹をご覧ください。
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本日は、お城のお堀の周りを散策してみましょう。
お城の西側にやって来ました。お城の西は、中堀と外堀が最も接近しているところです。
写真は、「千姫の小道」と言って、千姫のお散歩コースだったところです。
千姫が住んでいた西の丸からも近く、平成の現在では、地元の人のお散歩コースとして愛されています。
写真右部分は、外堀である船場川。左部分は姫路城の中堀です。
続いて、お城北側の原生林エリア。木陰はひんやりとしていて過ごし易いですね^^
お城東側の内堀も緑に包まれていて、昼の暑い時間帯でしたが、こちらも木陰では少しひんやりしていて気持ちが良かったです^^
まだまだあります^^お城の東側のお勧めスポット
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このようにお散歩コースには、事欠かない姫路城のお堀の周り。
一度、お堀に沿ってお散歩してみては如何でしょうか。。
姫路の尊王攘夷運動と河合惣兵衛
1892年(明治25年)11月、政府の機密顧問官を務める山田顕義が生野銀山を視察中に急死するという事件が起きました。
山田には結核の病歴があって、数日来から体調を崩していて、姫路に到着した際にも苦しそうであったことが記されています。
翌朝、姫路から生野へ向かう途中、山田は坂田町の善導寺を訪ね河合惣兵衛宗元と刻まれた墓石に向かって手を合わせました。
この山田顕義は長州藩出身で、高杉晋作や久坂玄瑞らと尊王攘夷の血判書に名を連ね、第一次伊藤内閣では日本で最初の司法大臣を務めた大物です。
このような人物が命懸けで墓参した河合惣兵衛とは、果たしてどのような人物だったのでしょう。
河合家は、代々姫路藩の家老職を歴任する家柄で、惣兵衛も250石の上士の家に生まれます。
惣兵衛は、河合寸翁が開いた仁寿山校という塾で勉学に励み、後に勘定奉行や物頭を歴任します。
ところが、1862年(文久2年)3月、薩摩藩主島津久光の上洛途中、姫路や室津に集まった諸藩の尊王攘夷派の志士たちを目の当たりにした姫路藩にもようやく攘夷か開国かの議論が巻き起こり、河合惣兵衛らの攘夷派と主席家老・高須隼人らの佐幕派に分かれました。
同年の5月に上洛した惣兵衛は、京都の勤王の志士たちと共に過激な攘夷論を唱えた事によって、姫路に送り返されます。
さらに同年12月には、再び上洛の機会が与えられ、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞らの勤王の志士たちと盛んに交流し、やがて三条実美ら攘夷派とも接触するようになります。
翌年8月18日の政変の際には、「この危急亡の秋、七卿ことごとく禁闕を去られては誰あっての君側を清めましょう。」と失脚する三条実美を諌めました。
時を前後して、惣兵衛の上司である酒井忠績は老中首座となり惣兵衛ら勤王派の藩士たちの言動が無視できない状況となっていきました。
このような状況で、惣兵衛の子・河合十郎宗貞らが脱藩。すぐに捕えられ、これを契機に攘夷派への取り締りが強化され、惣兵衛も姫路藩によって捕えられます。
惣兵衛はその罪を一身に背負い、他の藩士たちの命乞いを行いますが、12月に惣兵衛以下6名が切腹。2名が打ち首。6名が永久投獄。のべ76人が処罰を受けました。
これにより、姫路藩の攘夷派は一掃されました。この事件は「甲子の獄」と呼ばれています。
この事件以降、姫路藩は佐幕一色となり、後に起こる鳥羽伏見の戦いでも敗れ朝敵になり、その後朝廷に恭順の姿勢を貫くもなかなか赦されることはありませんでした。
その原因の一つが、姫路藩による河合惣兵衛の切腹命令だったとされています。
当時の勤王の志士たちにとっては、惣兵衛は同士そのもので、彼らにとって桂小五郎や伊藤博文と同様に尊敬されていたことが、田中顕義の行動からも推察されます。
(出典: ひめやま物語vol.5 姫路の尊王攘夷運動と河合惣兵衛)
お花見
天候にも恵まれ美しい桜の写真がたくさん撮れました。
まずは、西の丸のしだれ桜から。![]()
西の丸のソメイヨシノです。![]()
西の丸の白漆喰とソメイヨシノの白さ比べといったところでしょうか・・息を飲むほどの幻想的な風景が広がっていました。![]()
日本一、桜が映えるお城~姫路城ですね^^![]()
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しばし見納め~姫路城大天守
昨年秋から2015年まで、姫路城の大天守が改修工事に入りました。また、工事期間中は、素屋根という巨大な足場で大天守がすっぽり覆い隠される為、見納めに行って来ました。
お城では、通常の花見客と管理人のような見納め客とがどっと詰めかけ、城内は大混雑していました。
姫路の街では、菓子博以来の活況ぶりでした。
城内では、たくさんある門をくぐるのに、大渋滞が発生していました。右の写真でも、一瞬お城の中とは思えないくらい渋滞しているのがわかります。
次は、大天守の建物の中の様子。見ての通りの寿司詰め状態で、かなり危険でした。
姫路城の歴史~室町・安土桃山時代
姫路城の始まりは、南北朝時代の1333年、播磨の豪族・赤松則村が姫山に小さな砦を築いたことが、その起源とされています。
その砦が、1346年則村の子供・貞則によって城として改築されたのが築城の起源とされています。
その後、小寺氏が播州平野に台頭してきました。
その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入りました。
重隆によって1555年から1561年にかけて居館程度の規模であった姫路城の城郭作りが行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられています。
1576年、織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐してきます。
秀吉は、1580年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(3層と伝えられる)を建築しました。
(写真右:羽柴時代の姫路城)
あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備しました。
1600年に、関ヶ原の合戦で手柄を挙げた池田輝政は、東三河15万石から播磨52万石に増石され、姫路城主となりました。
家康は、娘婿でもある輝政に命じ、西国大名への睨みをきかせるための大城郭作りに着手します。この1601年から1609年にかけての改築工事で、現在の連立式天守が完成されました。
8年がかりの大工事で築かれた城は、当時の城郭建築の技術の粋を結集したもので、五層七階の大天守と三層の小天守が連結した本丸、二の丸など、現在見られるような規模と美を兼ね備えた城となりました。
この時の大改築工事は、城の建物だけでなく、堀のレイアウトも含めた城下町つくりも合わせて行われました。
川の流れを変えることで、内堀・中堀・外堀を螺旋形に配置し、外敵の侵入をより困難にするレイアウトになりました。
姫路城の歴史~江戸時代
1617年池田家に代わって本多忠政が姫路城主となりました。
本多忠政の時代となっても姫路城の改築工事は継続され、忠政の嫡男忠刻は家康の孫である千姫を妻としていたため、10万石の化粧料が与えられ、忠刻と千姫の居館、今も残る西の丸・化粧櫓、三の丸が築かれ、全容がほぼ完成されました。
江戸幕府は姫路城を西国への重要な要衝とみなしていて、藩主は親藩および譜代大名が務めましたが、本多家の後はめまぐるしく主が入れ替わりました。
1749年上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定しました。
しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職という理由も重なって、藩の財政を圧迫していました。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれましたが、当時の建築技術では天守の重みに基礎部分が持ちこたえられず、沈み込んでいく状況を防ぐことはできませんでした。
さらに柱や梁などの躯体部分の変形も進行していました。
江戸時代の最初の補修は、1656年大天守を支える東西大柱の地下部分が腐りかけたため、腐った部分をくりぬいて新しい木材と入れ替えることで補強を施しました。
1749年、1759年、1773年の洪水の時には、その被害を補修するための大規模な工事が行われました。
1793年には、ゆがみが大きくなった大天守1、2階に筋交いと支柱を施すことで城の傾きを防ぐ工事も行われました。
また、屋根の葺き替え、補修工事は何度も行われ、台風や大雨の際には石垣、門、橋などの修理も行われました。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいては、姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属していましたので姫路藩も朝敵とされ、新政府軍に包囲されました。
この時、姫路城に向けて威嚇砲撃を行ない、このうち一発が城南西の福中門に命中しました。姫路藩側は最終的に開城を決め、城の明け渡しを行うことで新政府に降服しました。こうして姫路城が取り壊される事態が回避されました。
姫路城の歴史~明治・大正時代
明治4年(1871年)の廃藩置県、さらに明治6年(1873年)の廃城令によって、日本の城はその機能を失いました。
姫路城も例外ではなく、競売にかけられ民間人に売却されました。
城の古鉄または瓦を目当ての購入でしたが、一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用がかかりすぎる事が判明し、結局そのままにされ所有権も消失しました。
姫路城は、明治7年(1874年)に大阪鎮台姫路分営が城内の敷地内に置かれることになり、周辺一帯が取り払われました。
時の陸軍省第四局の大佐・中村重遠が保存に尽力し、明治12年(1879年)存続が決定して、陸軍省の費用で補修が行われることとなりました。
しかし、財政難の折、新政府から支払われた一時金では、大天守地階補強のための支柱交換がやっとでした。
明治15年(1888年)には火事で一部を焼失し、日清戦争後は第10師団の軍用地に供されて士族屋敷も取り払われました。
廃墟となった城はどんどん荒れ、屋根には雑草が生え、瓦は落ち、壁も石垣も崩れていきました。
築城時から少し傾いていた天守の傾きもますますひどくなっていき、この状況を憂えた市民が、とうとう立ち上がり「白鷺(はくろ)城保存期成同盟」が結成されました。
ようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われました。この工事でも、天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きの進行を食い止めるのが精一杯だったそうです。
この「明治の大修理」は、明治44年(1911年)に完了し、翌大正元年(1912年)には一般公開されるようになりました。
大正8年(1919)年には、陸軍省により西の丸の補修工事も行われました。
姫路城の歴史~昭和時代
昭和3年(1928年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となりました(実際の管理は姫路市)。
また、昭和6年(1931年)1月、国宝に指定されました。
太平洋戦争当時、姫路城の白壁は非常に目立ち、さらに姫路には陸軍の部隊が置かれていたので、爆撃対象とされることが予想されたため、コールタールで黒く染めたわら縄で編んだ網で城の主要な部分を覆い隠すことにしました。
しかし、昭和20年(1945年)7月3日の姫路大空襲では、姫路城内にも着弾し、本城跡にあった中学校校舎が焼失しましたが、西の丸に着弾した2発や大天守に直撃した焼夷弾も不発であったため、城郭建築の焼失は奇跡的に免れました。
(写真右:
空襲により炎上する名古屋城天守/昭和20年)
昭和の大修理は、昭和9年(1934年)6月20日、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始されました。
第1期工事は1935年から1950年3月まで行なわれる計画でした。
全ての建物を一度解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられました。先に天守以外の建物から着手されましたが、昭和19年(1944年)太平洋戦争激化により、中断されました。
戦後、昭和25年(1950年)に大修理(第2期)が再開されました。この工事は、昭和30年(1955年)に天守以外の修理が完了しました。
昭和31年(1956年)より天守大修理が始まりました。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われました。
天守の修理は、昭和39年(1964年)に完了しました。
※昭和の大修理の詳細につきましては、カテゴリ「昭和の大修理」をご覧ください。
白鷺城の美
姫路城、その華麗な姿は、今まさに飛び立とうとしているしらさぎに例えられ、白鷺城とも呼ばれています。
現在の姫路城は、池田輝政によって慶長6年から8年かかりで築かれたもので、天守を囲む形で堀と石垣が螺旋状に廻らされています。
"しらさぎ"を連想させるのは、天守を中心とする建物が白漆喰総塗籠造りであることや、重なり合う屋根の翼のような優美な印象からです。
しかし、姫路城はただ単に美しいばかりではなく、火縄銃の襲撃による延焼を食い止めるために漆喰が採用されてるように、その美しさの陰には強固な砦としてのさまざまな工夫がなされています。
1993年、奈良の法隆寺と共に、姫路城は世界文化遺産に登録されました。
